一万時間の法則と一万回の実験
更新日:2月29日
1万時間の法則
「1万時間の法則」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?1万時間の法則とは、著名なノンフィクション作家のマルコム・グラッドウェル氏の著書『天才! 成功する人々の法則』(講談社、2009年)(原題:Outliers: The Story of Success)によって知られてきた法則です。
その趣旨は、ある分野でスキルを磨いて本当に一流中の一流になるには1万時間の練習、または学習の繰り返しが必要だという理論です。1万時間とはどの位かというと、1日の練習時間を3時間として、およそ10年間。またフルタイムの仕事であれば週に40時間働くとして(しかも、40時間みっちりそのスキルだけを磨くとして)250週、およそ5年間にあたります。
グラッドウェル氏の本のもとになった調査は、心理学者のアンダース・エリクソン教授らが1993年に発表した論文の中にある実験です。この実験では主に交響楽団の演奏者や音楽大学の音楽専攻の学生などを調査対象にし、より実力があるとみなされている人ほど練習時間を多く積み重ねており、交響楽団のバイオリン奏者や国際的にソリストとして活躍できる実力のあるバイオリン奏者は、今までの人生の中で約1万時間以上を練習にかけている、という研究結果です。
「一万時間」は本当か?
では、本当に一流になるのに必ず1万時間かかるのでしょうか?前述のグラッドウェル氏の本の中ではビートルズが大成功した原因の一つとして地元リバプールのクラブで膨大な時間をバンドとして一緒に練習していたということが挙げられています。
これに対しては多方面から疑問があげられているのですが、その一つは膨大な時間を練習に費やしているロックバンドというのは結構たくさんあるのではないか、特にビートルズが他のバンドに比べて練習時間が多かったということのみが成功の要因になっていることには疑問がある、という声が多いのです。そして、必ずしも練習時間が多いバンドがビートルズを超えるような成功をおさめているわけではないことは容易に想像できます。
また、どんな分野でも「1万時間の法則」が当てはまるのか、と言う疑問もあります。1万時間の法則に挙げられている主な例は、世界的・歴史的に有名なスポーツ選手や音楽家の例がほとんどであり、こういった特定の分野で世界レベルに達するには膨大な練習が必要だと述べているに過ぎません。
では、「1万時間の法則」はビジネス分野にも当てはまるのでしょうか。
『たいていのことは20時間で習得できる』(日経BP、2014年)(原題:The First 20 Hours: How to Learn Anything)などの人気ビジネス書を著したジョシュ・カウフマン氏は、これはビジネス分野には当てはまらないと主張しています。
“「極めて競争の激しい分野のトップになるには1万時間かかる」という主張は、「何かのエキスパートになるには1万時間かかる」になり、「何かが上達するには1万時間かかる」になり、「何かを学ぶには1万時間かかる」になったのです。”
1万時間が有効なのは特殊な職業だけ
さらに、もっと最近の研究では、この1万時間の法則というのはかなり特殊な職業にだけ当てはまるのではないかと言われています。1万時間の法則の本で主に取り上げられたのはクラシックの音楽家です。
2014年に行われた研究によると、意図的な練習の時間数がパフォーマンスに影響する割合は、ゲームでは26%、音楽では21%、スポーツでは18%、 教育では4%だが、ビジネス系プロフェッショナルの職業ではわずか1%にすぎないという結果が出ています。すなわちビジネス系では練習の時間数はそれほど大きな要素ではないというわけです。
別の見方をすると練習時間の多さは音楽やスポーツのように、比較的技術的な変化が遅いか、またはあまり変化しない分野でより役立つ、という可能性があります。未来が過去とだいたい同じという分野です。一方、テクノロジーやビジネスのように変化の激しい分野ではほとんど役に立たないとも言えそうです。
1万回の実験の法則
これに対して最近では、そういった特定の分野でない一般のビジネスなどでの成功の原因は1万時間ではなく「1万回の実験」にあるのではないかという主張が見られます。(厳密には1万回ではなくてもそれに近い膨大な数の実験)
Amazon や Facebook など非常にクリエイティブで革新的と言われる急成長企業が、社内で年間に何千もの実験を繰り返しているという事実が一つの根拠のようです。
膨大な数の実験を繰り返した偉人といえばトマス・エジソンが非常に有名ですが、エジソンは電気・映画など五つの分野で大きな発明をしています。エジソンの成功の秘訣としては何千回もの意図的な実験を繰り返したということがよく知られています。電球を作る際に約1000の伝導物質を試し、そのうちほとんどは失敗。(もっともこれは正確には間違いで、エジソンが試していたのは電球のもとになる電池だという説もあります。)
他の人がエジソンに、どうして1000回も失敗しているのに諦めないのだと聞いたところ、エジソンは、「私は一度も失敗なんかしていない。うまくいかない物質が990以上あることがわかった、という発見に成功しただけだ。」と言ったと伝えられています。
このやり方を最近の急成長テクノロジー企業が実践しているのです。エジソンなどの例から言えるのは、テクノロジーの改良やビジネスなどの分野では時間をかけることではなくて実験の数を最大化するということです。これが1万時間のルールではなく1万回の実験のルールと呼ばれているのです。
エジソンの他に1万回の実験のルールに近いものを持っていったと思われる偉人にはレオナルド・ダヴィンチが挙げられます。ダヴィンチは毎日起きた後「やることリスト(To Do List)」ではなく「試すことリスト」を作って1日を始めていたと言われます。ダヴィンチの伝記を書いた作家ウォルター・アイザクソンによると、ダヴィンチのライフハックは毎朝知りたいことをリストアップすることだったということです。
1万回の実験はどうやるのか
こういったやり方は特殊なクリエイティブな職業だけではなく、日常的なビジネスにも応用できます。
例えば営業の電話を50本かける場合に、同じ文言で50回かける代わりに、営業電話の最後で何か質問をすることで次回に繋がる場合が多いかもしれません。または、かける時間や、伝言を残すとしたら伝言の長さや内容などで相手の反応が違うかもしれません。全く同じ電話を50回かける代わりに、例えば10回ごとに変化させてその応答率を調べてみれば、これですでに5種類の実験をしていることになります。
研究者のディーン・キース・サイモントンは、世界の優れたクリエイティブな業績を残した人々を研究していますが、その論文や著書の中で興味深いことを見つけています。一つは革新的なアイデアの多くはごく少数のスーパースターによって生み出されていること。どんな分野でも上位10%のスーパースターが画期的なアイデアの半分以上を生み出しているそうです。
ここで面白いのは、このようなスーパースターが生まれつき偉大で頭が良くて成功しているわけではないということです。実はこういったクリエイティブなスーパースターも他の人と同じように実に数多くの「悪いアイデア」を出しているのです。良いアイデアが多数出てくるのはなぜかというと、元々のアイデアの数、そのアイデアを実験した数が実に多いので、 失敗も多いが成功の数だけみると実に多数になる、というわけです。
世界の最も革新的な企業がやっていること
ファーストカンパニーの記事によると、新しいテクノロジーやビジネスを生み出している世界で最も革新的な企業は年間数千もの実験を行っているとのことです。 ほんの20年ほど前までは企業で行われるテストや実験、つまり新製品や新しい経営手法のテストなどは毎年いくつかやってみるという位のレベルでした。
しかし現在では少なくとも米国の最も革新的な企業は年間に何千回もの実験を行っています。例えば会計ソフトのIntuit社は年間1300回、 Google は7000回、 Amazon は2000回近く、といった調子です。
なぜ、こんなに極端な数の実験が可能になったかというと、一つは新しいテクノロジーによって実験のシミュレーションのやり方が極めて早く、しかも費用効率が高くできるようになったことが挙げられます。
もう一つは、「 リーン・メソッド[1]」 と呼ばれる、大企業であってもごく小規模のスタートアップのように、素早く・軽く企業を経営する経営手法などを大企業が取り入れ始めたことなどにもよります。
[1] Eric Lies氏の著書「The Lean Startup」で有名になった、企業規模にかかわらずスタートアップのように簡潔に早く経営すること。
Amazon の例
例えば Amazon社 の例としては、2011年に創業者 ・CEO のジェフ・ベゾス氏がインタビューで「実験を行うためのコストを削減し、より多くの実験を行えるようにするのがひとつの経営方針である」と述べています。
こういった実験の成功率は実はそれほど高くなく、むしろほとんどの実験は失敗すると言っても良いのですが、いくつかの成功例が極端に大きな利益をもたらすために例えば10回のうち9回は失敗してもやる価値があるわけです。
Amazon の新事業の例で言うとアマゾンウェブサービス(AWS)はわずか10年ほど前に Amazon の Eコマース事業とは全く無関係の実験としてスタートしたのですが、現在は Amazon が非常に利益率の高い B2B企業に転換した、一番の要となっています。
また、かつてはリアルの環境でしなければならなかった実験が仮想環境で出来るようになったために極めて早く・安いコストで実験を行えるようになったこともあります。
例えば、米国の消費者向け製品の大手である P & G社 は現在、10年前の約1万倍の速度で新製品に関するアイデアを生み出すことができるそうです。 アイデアを生み出すだけではなく、マーケティング的にうまくいくかどうかのテストが必要なのですが、それも現在は仮想の店舗環境を使って消費者の反応をテストし、その結果に基づいて最適なパッケージや製品を店頭に並べる方法が従来よりも極めて低いコストで実現できるということです。
このように見ると、もちろん事業分野によっては昔のようにじっくり時間をかけて確実に…ということも必要なのですが、革新の早い分野では、いかに多くのアイデアを出し、そのうちのほとんどが失敗でも良いので、実験を早く繰り返す手法を取り入れることも必要かと思われます。
参考: Michael Simmons、”Forget The 10,000-Hour Rule; Edison, Bezos, & Zuckerberg Follow The 10,000-Experiment Rule”
著者紹介
安藤千春/ Chako Ando
米国ベンチャー・イノベーションコンサルタント。サンフランシスコ・ベイエリアを拠点とし、米国の先端事例を参考に新規事業・リモートワーク・米国ベンチャー企業・イノベーション手法・フィンテック業界の調査、投資案件、日本企業との橋渡しを業務として活動。Cando Advisors LLC 代表。
(経歴)スタンフォード大学経営大学院修士(MBA): 東京外国語大学英米語学科卒業。旧日本興業銀行サンフランシスコ支店にてベンチャー・ファンド投資、住友銀行キャピタル・マーケッツ(NY)にてデリバティブ部門、大和証券ニューヨーク現地法人にてM&A、企業提携を担当。松井証券などのオンライン株式トレーディング・システム開発ベンチャー、ファイテック研究所の設立に参加。